― 仕事のやりがい、おもしろさはどこにあるとお考えですか。
専門性の高い分野であり、クライアントからの信頼を背景に、自分の裁量で出来るところも多い点だと思います。特に数理システムや基盤系に携わる場合、システムのコア、社会インフラのベースともなる部分を開発できるのは、エンジニア冥利に尽きる、のではないでしょうか。難易度は高い。でもその分、やりがいも達成感も大きくなります。
― なぜ御社はそうした専門性の高い分野を強みにできているのでしょうか。
これは私のキャリアに関わっています。実は、子供の頃の憧れは戦闘機のパイロット。航空自衛隊の航空学生試験に挑戦したのですが、視力検査が不合格で夢は叶いませんでした。幼いころからの夢が破れて意気消沈していると、自衛隊の担当官が学校まで訪ねて来てくれて、「戦闘機の整備員になる気はないか」と。「いつか戦闘機の後ろに乗れるかもしれない」という言葉にひかれ、特殊電子機器の整備員として入隊します。仕事はとてもおもしろかったのですが、どれだけ続けてもパイロットにはなれないため、自分の将来を考え、自衛隊に勤務しながら大学で電気工学を学ぶようになります。自衛隊を5年で満期退職したのには、情報工学の教授の言葉が大きく影響しています。「これからはものすごいスピードでコンピュータが社会に浸透し、次の時代の産業の中心になる」。新しい時代のフロンティアを切り拓くことに魅力を感じ、卒業後、業務システム開発を行うIT企業へ入社。1974年、IT創成期で、コンピュータがオフィスビルの1つのフロアを占めていた時代から、SEとして多くの業務システムの構築に携わってきました。
― そこで金融システムと出会った、と。
日本IBMと、私が在籍していた会社が、金融戦略上のアプリーション特化型の合弁会社を立ち上げることになります。それが1987年で、日本IBMが初めてハードからソフトに舵を切った戦略的な子会社をつくるということで話題になりました。私はその会社の立ち上げから関わり、SE部隊の責任者を務めることになります。ここで金融システムのノウハウ、人的チャネルを培ったことが、その後のキャリアに大きな影響を与えました。ただ、ここではまだ数理システムを手がけたわけではなく、出会いは97年に起業してからになります。
経験と人脈に導かれるようにして、数理システムと出会った
― 97年といえば「金融ビッグバン」で金融制度改革が始まった頃ですね。
護送船団方式から、各会社が自由に商品開発できるようになりました。ある大手生保が大規模なシステム再構築のプロジェクトを立ち上げたとき、設立した間もない弊社にも声がかかります。普通なら、なんの実績もない会社が呼ばれることはあり得ませんが、これはSEとして培ってきた経験、そして人的チャネルのおかげです。そのプロジェクトで出会ったのが数理システムで、最初の数か月はアクチュアリーから一日中、数理の特訓を受けました。ここで知識を身につけ、さらに実践経験を積んだことで、数理システムのプロフェッショナルSEとしての土台ができたと思います。自分から望んだというより、時代の変化やいろんな人との出会いがあり、気づいたら数理システムの世界に。それが今、弊社の最大の強みになっているのですから、振り返るとラッキーでした。
― 経営者として最も大切にしているものはなんでしょうか。
真っ先にあげたいのは「人」です。顧客第一主義を掲げる会社はたくさんありますが、弊社は「社員第一主義」。事業形態がBtoB、コンシューマー向けではないこともありますが、SE集団だからこそ「人」を大切にしたい。
― SE集団と聞くと、技術最優先のようにも受け止められます。
専門分野を手がけている以上、高い技術力は前提です。ただ、技術が高ければいいかというと、それは少し違います。SEの仕事はクライアントの要望を聞くだけでなく、クライアントが気づいていない要件を引き出すことが一つ。そして、その要件や気づきをプログラマーに伝える設計書を作成するのが一つ。つまり、クライアントと向き合ったときの対応力、洞察力。プログラマーにわかりやすく伝える伝達力が必要であり、それを突き詰めると「人」になるのです。
プロフィール
- お名前松浦 弘禧
- お名前(ふりがな)まつうら ひろき
- 出身広島県福山市
- 趣味剣道
- 尊敬する経営者本田宗一郎
- もし生まれ変わったら?次こそ視力1.0以上で戦闘機のパイロット
- 出身校日本大学(全共闘運動の最中で自衛官受験拒否の大学がある中で受け入れてくれた)
- 特別国家公務員経歴航空自衛隊5年勤務