ぴあ株式会社 代表取締役社長 矢内 廣
「初心」を忘れない
ぴあ株式会社の創業は1972年。矢内廣が中央大学4年生の時だ。まだベンチャーという言葉が珍しかった頃に雑誌『ぴあ』は創刊された。学生起業家のパイオニアとして名高い矢内廣。彼は、「座右の銘は何か」と聞かれると必ず「初心」と答える。最初に信じたことを決して忘れず、困難を克服しながら前へ進んでいく男。そんな矢内の「初心」に込められた想いとは、何なのだろうか?彼の原点はどこにあるのだろうか?
※下記はベンチャー通信15号(2005年10月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
― 起業のきっかけは、何だったんですか?
大学卒業をひかえて、このまま普通に就職するのがイヤだったんです。誰かの作ったレールに乗せられてる感じがして、シャクだった。それなら、「自分たちで自分たちのビジネスを作ればいいじゃないか」というのが、起業のきっかけですね。
はじめから、『ぴあ』という雑誌を創ろうと思っていたわけではありません。本当は何でもよかったんです。冗談の通じあう仲間たちと共通の経済基盤を作りたかった。ただ、それだけなんです。最初は、「カレー屋をやろう」とか「古本屋をやろう」とかいろいろ考えていました。でも、「将来性があまりないな」って、ずっとモヤモヤしていたんです。
― 『ぴあ』という雑誌を創ろうと思った理由は、何だったんですか?
僕自身、映画が好きで、大学時代は映画研究会というサークルに入っていました。でも当時は、自分が見たい映画の情報を網羅的に紹介しているメディアがなくて見逃すことも多く、すごく不便さを感じていたんです。それなら映画の情報をひとまとめにした雑誌を、自分たちで創ればいいじゃないか、と思ったのがそもそものきっかけ。そして、映画だけでなく、演劇や音楽など、エンタテインメントの情報を集めた雑誌を創ろうじゃないかというのが、『ぴあ』の始まりだったんです。サンプルを作ってみて、周りの仲間たちに見せたら、「100円なら買ってもいいよ」と言ってくれた。それで、「これはいけるんじゃないか」と思い、『ぴあ』を創刊することにしました。
―
『ぴあ』を創刊した時から、ビジネスとしてやっていけると確信していたんですか?
いや、最初は確信が持てませんでした。「これでビジネスとしてやっていける」と強く感じたのは、3号目の部数が、創刊号の部数を上回ったとき。創刊号から2号目に移るときには、通常、部数は減りますから、3号目が雑誌の実力をはかる指標になると言われています。そして、3号目からは、前号より部数が減ることはありませんでした。『ぴあ』を置いてくれる本屋さんは、創刊時には89店しかなかったのですが、そこからみんなで一軒一軒まわって増やしていきました。すると、取り扱いの本屋さんが増えれば増えるほど、『ぴあ』の部数が飛躍的に伸びていったんです。それで確信したんです。「『ぴあ』には商品力があるんだな」と。「ビジネスとして、ちゃんとした形が作れるな」と。
プロフィール
- お名前矢内 廣
- お名前(ふりがな)やない ひろし
- 出身福島県