テンプスタッフ株式会社 取締役会長 篠原 欣子
逆境にめげず、何事にも果敢にチャレンジしよう
取材中の篠原は、笑顔が絶えず、非常に気さくで決して偉ぶることはなかった。そんな篠原が38歳の時に起業したテンプスタッフは、今では連結売上2000億円超、経常利益100億円超、しかも実質無借金経営という優良企業に成長した。篠原自身も米フォーチュン誌が選ぶ『世界最強の女性経営者』に8年連続で選ばれている。常に経営の本質を愚直に追求し続ける篠原に、起業家の条件、そして篠原自身の起業の経緯などを聞いた。
※下記はベンチャー通信32号(2008年5月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
【インタビュー前編】利己的な考えで起業してはいけません
― 篠原さんが考える“起業家の条件”を教えてください。
まず「お金儲けをしたい」、「社長になりたい」という利己的な考えではうまくいかないと思います。「この事業をやって社会に貢献したい」という純粋な想いがないと会社は長く続きません。起業するのが目的で起業してはいけません。自分が起業することで、世の中でどんな役に立つのか、そこがいちばん大事です。
私の場合、まだ日本で女性の活躍できる職場がなかったので、「じゃあ、自分で会社をつくって、女性の活躍できる職場をつくろう」と思ったのが起業のきっかけでした。また、私は海外での勤務経験が長く、ちょうどオーストラリアで秘書として2年間働いていた頃、現地で優秀な派遣スタッフが活躍しているのを見ていました。だから人材派遣業の素晴らしさを知って、日本でも人材派遣業を広めたいと思いました。
―
昔から起業志望ではなかったんですね。
起業したいなんて思ったことはなかったですね(笑)。ただ、働く女性に憧れはありました。これは母の影響です。私が8歳の時に父が病死して、母は助産師の仕事をしながら5人の子供を育てたんです。その当時、自立した女性は珍しく、働く母の姿は本当に格好良かった。母は食事をしていても、寝床についていても、依頼があれば、すっと立ち上がり、きりっとした出で立ちで仕事に出かけていきました。私は子供心に「将来は母のような働く女性になりたい」と強く思うようになったんです。
― なるほど。では、起業当時の話を聞かせてください。
手元の資金は100万円でした。東京の六本木にわずか8坪の自宅兼オフィスを借り、電話と事務机ひとつでスタートしました。ちょうど私が38歳の頃です。そしてオフィスに寝泊りしながら営業活動を始めました。チラシをつくって、六本木近辺にある外資系企業に飛び込み営業をしました。
起業当時は本当にお金がなく、母からお米を送ってもらう有り様でした。また日銭を稼ぐために、夜はビジネスマン向けに英会話教室を開きました。夜になると看板をかけかえていました。昼は人材派遣業、夜は英会話教室といった風に(笑)。そうやって何とか食いつなぎましたね。
― 今では米フォーチュン誌が選ぶ『世界最強の女性経営者』に8年連続で選ばれている篠原さんも、起業当時は“壁”だらけだったわけですね。
当時の私に経営者としての知識なんか全くありませんでした。でも、何も知らないからこそチャレンジできたんだと思います。下手に経営に関して知識を持っていたら、起業なんて怖くてできなかったと思いますね。
あるときは税務署から電話がかかってきて、社員の源泉徴収をしていないことを指摘されました。でも、私は源泉徴収って何?の世界。「源泉徴収って何ですか?」と私が聞くと、税務署の人は笑っていましたね。
そんな私を周りの人は温かく応援してくれました。昔から私は特別な能力なんて持っていませんでした。今でも私は自分に特別な能力があるとは思っていません。だからこそ、周りの人が私を助けてくれたんだと思います。傍から見ていると、危なっかしくて放っておけなかったんでしょうね(笑)。
プロフィール
- お名前篠原 欣子
- お名前(ふりがな)しのはら よしこ
- 出身神奈川県
- 平均睡眠時間6時間
- 平均起床時間6時00分
- 趣味ウォーキング
- おススメ本松下幸之助の書籍全般
- 購読雑誌5冊/月
- 今までに訪れた国20ヵ国
- 座右の銘置かれた環境で一生懸命。 必ず光は見えてくる
- 尊敬する人母親、松下幸之助、マザーテレサ
- 好きな食べ物和食
- 嫌いな食べ物なし
- 今日の財布の中身数万円